「私さえ我慢すれば」が、いつの間にか基準になっていた
「私さえ我慢すれば」
そう思って選んできたことが、
気づけば当たり前になっていませんか。
母の「〇〇して欲しい」というお願いや、
「〇〇しなさい(50を超えても言われる私・・)」
という言葉を投げかけられると、
「私がすればいい」
「余計な叱責を受けるのも面倒」
「私が少し我慢すればいい話」
「我慢」は選択だったはずなのに
最初は一時的だったり、
その場を丸く収めるためだったり。
たとえば、
本当は断りたい頼まれごとを、引き受けること。
言いたいことを飲み込んで、その場をやり過ごすこと。
誰かのため、家族のため、仕事のために
「私さえ我慢すれば」と、
心の中でつぶやきながら通り過ぎてきたことが、
ありませんでしたか。いつの間にか「基準」になっていく
知らず知らず、
自分が我慢する前提で考える癖が身につき、
他の選択肢が見えなくなっていく。ドラマチックではなくて、毎日起きていることだから
「我慢」が基準になっていることに気づきにくい。
疲れていても、
「仕方ない」「これくらい普通」と処理してしまう。
そうして、
我慢している自覚そのものが、
薄れていくことがあります。我慢は優しさ。…ではないかもしれません
優しさと、自己消耗の境目。
怖いのは、
我慢していることに、
自分で気づけなくなることです。
50歳前後の女性の声
これまでに
「我慢してきたはずなのに報われない」
「結局、どこまで我慢すればいいのかわからない」
我慢してきたあなたは、間違っていません。
でも、その我慢を「これからも続ける基準」にしなくていいのです。
それは本当に
「私が我慢したいこと」だったでしょうか。
今日、
何かを変えなくて大丈夫です。
ただ、
「我慢してきた私がいる」
そう気づけたなら、それで十分です。
次の記事では、
「決められない自分」を責めてきた理由を、
もう少しだけ言葉にしてみます。